【四季折々】手鞠寿司【しげよし】

2018/02/16

 
私ども「しげよし」は、御献立に「手鞠寿(てまり)司」をご用意させていただいております。今回は、手鞠寿司に込めた私たちの思いをご紹介させていただきます。
 
■「毬」は奈良時代に中国から伝来しました
 
手鞠寿司とは、手鞠に似せて丸く握ったお寿司のことです。トビコやサーモン、海老などをあしらい、色鮮やかに仕立てさせていただいております。
「手鞠歌」などでおなじみの「手鞠」は、まるめた綿を芯にし、その上を色糸で巻いたものです。
毬は、蹴って遊ぶ革製の「蹴鞠(けまり)」古代中国の唐から奈良時代(西暦710年から794年)に渡来し、平安時代以後は京都の公卿(くぎょう)階級中心の遊びとして行われました。そのうち、毬を高く投げて、それを地面に落とさないように遊ぶ「品玉」という遊びも流行り出しました。
田植えなどのときに、神様に豊作を祈るために歌舞を捧げる「田楽」が行われるようになったのは平安時代(西暦794年から1192年)です。この頃、田楽法師という職業的な芸人が現れ、腰に付けた鼓を打ったり、中央が椀状に突起した青銅製の円盤2個を両手に持って打ち合わせる「銅拍子」という楽曲を披露したりしていました。そのうち、高足(竹馬のようなもの)に乗って、いくつもの毬をお手玉のように操る品玉遣(しなたまつか)いという曲芸師も現れたといわれています。続日本後紀には、837年に当時の天皇陛下が品玉遣いをご覧になったという記録があります。また、三代実録という古書には、相撲節会(すまいのせちえ)という宮中相撲の際に、品玉遣いが披露されたという記録が残っています。
「毬」は古来、貴族のたしなみだったといえるでしょう。
 
2018sp-OT-3 手毬寿司
 
■手鞠が少女のおもちゃになったのは江戸時代からです
 
日本に「綿」(めん)が伝来したのは、「類聚国史」によりますと西暦799年だといわれています。もっとも、伝来当時からしばらくは貴族社会で高級布地として珍重されており、一般に広まるのは戦国時代に入ってからです。それも、民衆の衣料素材としてというより、軍用に不可欠な素材(兵衣、幔幕、火縄等)として急速に広まっていったと考えられています。この頃、三河などで綿花の栽培が始まりました。民間に木綿が広まっていくのは、江戸時代に入ってからです。
弾力性のある木綿が普及するにつれて、蹴鞠や曲芸のお手玉として使う毬が床面について遊ぶ手鞠に変わり、少女のおもちゃになっていったと考えられています。
そのうち、鮮やかな色の糸を使って、美しい贈答用の毬が作られるようになりました。絹糸で模様をかがった手まりに吊りひも、房飾りなどをつけて飾り物に仕立てた「御殿まり」が山形県鶴岡市や秋田県由利本荘市で作られるようになったのは、江戸時代中頃です。直径8~30cmまでバラエティに富んだサイズの御殿まりは色とりどりでとても美しく、最近では秋田県由利本荘市が「御殿まりあやめ」ちゃんというご当地キャラクターを誕生させたことで有名になりました。
雛かざりの横にあしらっても美しい手鞠。インテリアとしてもいいですね。
 
■手鞠の美しさを表したのが手鞠寿司です
 
金銀や紅などの美しい糸をめぐらせる手鞠。その手鞠に似せてご飯を丸く握って飾る「手鞠寿司」がいつ頃発祥したのかはわかっていません。日本人は昔から、食事を「目」でも味わうことを大切にしてきました。その心が、お寿司を毬に見立てる「手鞠寿司」を完成させたのでしょう。
ご家庭でおつくりになるときは、食卓用ラップにご飯をほんの少し取り、手の平で転がすようにしてラップの口をきゅっと絞ると丸く仕上がります。ひな祭りのお食事にぜひ、お召し上がりください。
私どもも、季節の折々を料理に込める日本人の心を大切にしたいと存じます。かけがえのないひとときに、私どもの仕出しがおそばにあれば、このうえなき幸せです。